母の誕生日
昨日4日は母上の誕生日でした。
節分の次の日と覚えやすく。
ちょっとした気持ちを先月の親父殿の誕生日に茶碗と湯呑をセットで。
ここで一句✒
この歳で 言い合う親子も めずらしい
とよく言われます。特に親父殿と僕は。今でも何かにつけて喧々諤々。でもそれもまた幸せとしたものなのかもしれません。僕の歳で両親が健在ってのもめずらしいことではないので。
母上にはまぁ無理せんようにこれからもボチボチ、、、とだけ。
昨日4日は母上の誕生日でした。
節分の次の日と覚えやすく。
ちょっとした気持ちを先月の親父殿の誕生日に茶碗と湯呑をセットで。
ここで一句✒
この歳で 言い合う親子も めずらしい
とよく言われます。特に親父殿と僕は。今でも何かにつけて喧々諤々。でもそれもまた幸せとしたものなのかもしれません。僕の歳で両親が健在ってのもめずらしいことではないので。
母上にはまぁ無理せんようにこれからもボチボチ、、、とだけ。
この間の11日、親父殿が78歳の誕生日を迎えました。
まぁ歳を取ったな~と。致し方ありませんね、もう間もなく80ですから。
そんな親父殿も一昨年?でしたか、長姉を亡くし少しですがそういったことにも敏感になってきました。
が、それにもめげず(?)元気にやかましくグラウンドゴルフなどをしている様子を見ていると、まぁもうちょっとは静かにできないものかね(笑)などと思うこともしばしば。ですが僕の歳で両親ともに健在ということはありがたいことです。もう少し僕自身そのあたりを、、、と。
ここで一句✒
いつまでも 大きな声で 元気でね
しかし「栄治より元気だな」と多くの人に言われます。ホンマですわ(^-^;
これからも元気で長生きで。
この前の日曜は父の日。毎年母の日ってのはかなりいろいろと各業界も盛り上がり、その感謝を伝えようとなにかしらプレゼントをと動きが大きいですが、父の日ってのはそれに対してわりかし(?)( ̄▽ ̄;) 地味な感が否めない気が個人的には。
と、ところが今年は息子とかみさんから財布をいただきました。
黒皮の手作り。札入れと小銭入れです。作ってくれたのは府市場の喫茶店threebirdsさん。ここの店主さんがいろいろな手作り小物もされてまして。んで仲のいいかみさんがお願いしたようです。
ここで一句✒
ありがとう 大事に大事に 使います
ちょうど今使ってるのもくたびれ塩梅でしたので。大事に使わせてもらいます。ありがとう(〃⌒ー⌒〃)ゞ
んで、親父殿には息子と僕からこれ。スーパーファミコンの将棋。いつも息子と悩んでまして( ̄▽ ̄;)夕食後「将棋しよう!」の親父殿の呼びかけに。
さすがに平日は。。。ということでたまにはこれで。さっそく楽しんでましたが、まずはコントローラーの使い方をおぼえるのとそれに慣れることに専念でしょう(笑)
この間本当にお世話になってる親父殿の姉上、いわゆる僕の伯母の入院先へお見舞いに。
そこは京都の市内とはいっても北の奥にあって非常に周りの環境も良くとても落ち着いた場所。
いろいろと催しもされてるようです。
この間は息子が親父殿とお見舞いに来ていて僕とかみさんだけが取り残されており(別に意味はありませんが・・・)今回は転院したということもあり僕と親父殿が。
親父殿よりも10以上歳上の姉でありまして。親父殿にとっては唯一甘えられる姉であり、姉ちゃん姉ちゃんと本当に親しげに語りかけます。まぁ兄弟姉妹でいちばん上といちばん下というのはこういったものかもしれません。
ここで一句✒
た~ちゃんも 元気そうで なによりだ
と弟を気遣うあたりさすがは長姉ですね。僕にはあんたがおるでた~ちゃんも元気なんだわな~。。。と。
最後はまたきい~な、と。伯母ちゃんも元気でね。
引き続き野球の話を。
お世話になってまる2年。3年目突入。最終学年6年生となりました。
入部した頃はどうしようもなく本気でやめさせようかとも思いましたが諸先輩のみなさんに「そんなもんだがな、長い目でみな」と言っていただきなんとかかんとか。
そして6年生、最上級生となった今いちばん体が大きい息子に4番をと白羽の矢が。
まったくほめられた4番ではなくこの一年どんなふうに成長してくれるかはわかりませんがそれこそ入部した頃を思い出してがむしゃらにやってほしいです。なんせ笑えない守備力なのでせめて打つ方は。。。(笑)
ここで一句✒
そういえば この前並んだ かみさんに
実はこの前学校で身体測定があった様で。かみさんと身長が並びました。まぁかみさんが小さいので(笑)
そんなことはさておきこれからも代表、監督、コーチさんはじめ諸先輩保護者のみなさん、ご指導よろしくお願いします。
なんせかんせ3人しかいない6年生。仲良くチームを引っ張ってガンバレよ(^.^)/~~~
さてさて続きです。
親父殿はそんなこんなで言ってみればよそ者。前回書いたように疎開組であるわけです。親父殿の親父殿、僕からしたらお祖父ちゃんが荒川で生まれてるので全くのよそ者ってわけではないんですが。
その第二弾です。
よそ者、出戻り(?)がそこで仕事をして地域の活動をがむしゃらにやっていたので今があると思うとそうですが、そこになるまでにこれは僕の記憶の中でも鮮明に脳裏に焼き付いてることが。これを生きながらえたので今日があると言っても過言ではない事故がありました。
僕が幼稚園か小学校1年生の頃だったでしょうか。区内を流れる稲葉川のそばに消防のホースを干す鉄塔を建てるために当時副分団長を任されていた親父殿はその作業に。何がどうなったのか、作業中に鉄塔と共に3mほど下の川の中に落ち大ケガ。肋骨が何本もいかれて内臓も、、、という大事故
に。当時を知る人は「よ~生きとったわ」「良くなってくれて本当によかったわ」と口々に。
僕の記憶にあるのは日高病院の病棟で点滴と酸素マスクをつけて苦しんでいた親父殿のすがた。母上がそばで。。。おそらくは相当な危機だったのかも。多分そこで何かあったとしたら今の僕はここにはいないのかもしれません、今思えば。
親父殿がいくつの頃だったか定かではありませんが、僕が幼稚園か1年生ということを推測するに僕と30ちがうので35~6かな。
ここで一句
みなさんの おかげでここまで やってます
そんな親父殿の口癖「死んだ目に・・・」そうは言いながらも今日まで生かしていただいて、さらに喜寿までも迎えることができまして。本当にみなさんのお陰お陰です。親父殿は疎開組なのでさらにみなさんのお陰お陰ということを思うんでしょうね。それは僕や兄2人、そして息子にも脈々と受け継がれていることだと。周りのみなさんに地域のみなさんに感謝感謝ですね。
これにて親父殿講終了
まぁこれからも
そこそこに
健康でいてください(笑)
そこそこで(笑)×2
昨日の続きであります。
親父の口癖に今までに2度死んだ目にあって、と話します。
その第一弾ですが。
親父殿の出生は18年1月11日。いちおう戦中生れということになります。産まれたのは大阪の此花区。今のUSJあたりか?と聞いても記憶にない、と。10以上離れている伯母と伯父に聞けばなんとかなるんでしょうがそこまでは。
戦中の大阪と言えばかなり人が多く(今でも多いが)市内どこに行ってもごった返して
いるような状態。そんななかで親父殿は産まれてすぐに腸チフスという病気
にかかって長きにわたって入院
したと。今でこそその治療環境も良くなり対処も良くなったんでしょうが、その当時の病院ってのはそれこそ想像するに
ここで一句
そこそこに 大変だった ことだろう
と思い、そりゃ大変だったな~というと「おぼえて~へん」と。まぁそりゃそうか。記憶の中に疎開したことさえ憶えてないみたいなので。。。
幸せなんでしょうね、この歳で両親が健在というのは。
11日で76歳になりました。
ありがたいことです。
数えでいう「喜寿」ってやつです。
その誕生日、特に祝うことも近年してないので(かみさんや息子はそれなりにしてるようですが)僕自身はスルー
ところがやはり歳をとるとそういうことを大事にすると言いますかわざと鼓舞するように(笑)まぁ喜寿なんで特別かな?と。
わが家では毎日が喜寿なんで(笑)遠くにいる兄2人に正月前に「喜寿なんでそっちで祝をなんとかしてやれんか」とキラーパス
ここで一句
正月に 2人で会って 相談し
いちおう2人おち合い相談したようです。僕にはまだ連絡がありませんが。
さて僕が祝わないまでも年金受給している某金融機関さんからお祝いのお手紙に粗品を2つも。「おめ~がしてくれんまでも◯◯さんがしてくれるわ」とニンマリ
さて、今日から3回親父殿の話を少し書きたいと思います。喜寿の記念に
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